ドライブ・マイ・カーを見ました。
RakutenTVですね。
アカデミー国際長編映画祭とっていたので、認知度はだいぶ高いんじゃないかな、と思います。
原作村上春樹ですね。
村上春樹といえば・・。
納屋を焼くで映画化したバーニングなんかも記憶に新しいですね。
バーニングは、あのイ・チャンドン監督がメガホンとっていますね。
バーニングのスティーブン・ユアンは、もう悪の権化みたいで凄かった。
イ・チャンドンといえば、シークレットサンシャインって映画もいいんだけどさ、オアシスって映画が何よりすごいの。
なんか、どストレートにぶっこんでくる映画なのね。
号泣必至の映画だった。韓国映画はほんとにすごいね。
で、それとは真逆の演出を行くのが、ドライブ・マイ・カーなのね。
多分、見ているとだんだん気づいてくるのね。
映画自体が、3時間以上に及ぶ内容なんだけどさ。
まあ、最近映画館で映画を見ることがだいぶ減ったから、家で映画3時間だろうか、6時間だろうが大丈夫、任せてくれと映画を見るよ。
ドライブ・マイ・カーね。
あらすじはこうよ。
主役は、西島氏。奥さんと夜明けベッドの中で何やら会話をしているの。
会話というよりは、一方的に奥さんの話を聞いてるんだけどねぇ。何の話をしているのやら、なんだか謎なんだね。
そうこうしていると、どうやら主人公が売れっ子の演出家だということがわかるんだけどさ。
で、妻は脚本家らしいわけ。
ある日、楽屋で舞台の後に、妻が新人俳優を連れて挨拶によるのね。
新人俳優は、岡田将生。次のドラマがどうだとか、西島こと家福の舞台が素晴らしいだの御託を並べているのを聞いているんだけど、さよならの挨拶をして扉をバタンと閉めた後、家福は近くにあった椅子に服をばさりと無造作に投げるのね。
でも、そのカットのすぐあとに、家福のスーツケースの荷造りショットが映るんだけどね。
服はきちんと綺麗に整頓されて収まっているのね。
彼はもともと綺麗に服をたたんで、スーツケースにしまうのに、楽屋では服を投げ捨てた、イライラしてたことがわかるわけね。
その日、彼は飛行機に乗ってウラジオストックに行く予定だったんだけど、吹雪だからと飛行機に乗れなかったの。
そのまま家に帰ると、
妻が、ほかの男性と、セックスをしている姿を目撃してしまうんだね。
どこかで見た男の後頭部が見えて、妻の喘ぎ声が聞こえる中、家福は家を静かに出て行って、ホテルに一泊するんだけどさ。
知ってか知らずか、ウラジオストックはどう?って家福に聞くんだね。
ウラジオストックにいるかのように家福はふるまう。
そのまま夫婦関係は続いていくけれど、ある日、
今日、帰ってきたら話をしましょう。
という妻が、その日急死してしまうのね。
で、それから数年後、彼はまた舞台演出をしようとしているさなか、あの男岡田将生と出会うことになるんだけど。
主人公は、遠くから車で運転して、演劇場までいくのね。
妻が吹き込んだカセットテープと会話をしながらね。
でも、とある演劇で演出者や関係者が過去に事故を起こしたことがあるから、基本的には運転させないようにしているんです、専属ドライバーを付けているんです。
と、みさきを紹介されて。
という、
ロードムービーのような映画になっています。
この映画ねえ。私はあまり好きじゃないのよ、実はね。
村上春樹が合わないってのは、まああるのかもしれないが、彼の作品をちゃんと読んだことがないというのは事実かもしれない。
ちなみに、演劇では実際に多種多様な言語を用いて、もちろん手話を用いた映画になっている。国際的なものを意識して作られており、元々カンヌ等を意識して作られたそうだから、その要素自体は決まっていたのかもしれない。
ただ、失語症としてのキャラクターが出てくるのだが、この手話に対しての話は、アフターシックスジャンクションの映画で学ぶ”ろう文化”が大変興味深かった。
手話は、言語であり、パフォーマンスではないのだと。
なるほど、と思った。
言語としてみていたのか、パフォーマンスとしてみていたのか。
それを深く考えるとよくわからないなという気がする。
自分自身外国の人に接する機会は結構あって、海外の人の文化や考え方って面白いな、興味深いなと思うことはよくある。
でも、ろう者の人と接したことが今までなくて、彼らにとっての手話がどういうものなのか、それはあまりよくわかってなかったかな、と思うわけね。
で、話を戻すけどさ。
ドライブ・マイ・カーは好きじゃないけど、興味深いのね。
まるで朗読劇なのね、というより
感情のない小説の文章のみが、ただただ頭の中で繰り返されるような
そんな感じなの。
NHKのお話の国だったら、感情豊かに語りては話してくれるのね。
でも、ドライブ・マイ・カーではあらゆる感情を排しているのね。
まるで、読んだことがない村上春樹の小説を読んでいるようなそんな感覚なわけね。
なんだろう、これは?ってね。すごい違和感があるんだ。
でも興味深いんだね。
また、映画の中では同時に演劇のリハーサルや本読みも行われるんだけどね。
本読みしていると、家福は、感情は載せないで、ただただそのまま脚本を読んでほしい。
そう言うわけね。
演者は、それに不服そうにしているわけね。読んでいるとやたら眠くなってしょうがないよ、ってね。
映画の中では感情を排した本読みをしていて、さらに感情を排した映画を見ていて、なんだか追体験をしているような3重構造みたいなかんじになっていて、まるで追体験しているような。
変な感覚なのね。
この映画は、会話文ではなくて、ずっと書き言葉なのね。
だから、すごく違和感を感じるのね。
だってそうでしょう?そう思いませんか、家福さん?
家福は、自分の愛車で妻と会話する。決してその言葉の奥には見えない、彼女の本心と。
そうして、岡田将生を車に乗せて、対話する。
家福は、言う。
脚本をただただ繰り返し読んで、言葉にすれば、それはすっと自分に降りてくると。
そして、家福は、ただただ夫婦の関係を壊さないようにしてきた。彼女が一体何者だったのか、よくわからず、それを車の中に押し込めて生きてきた。
彼女とのつながりは、夫婦とのつながりは、それはずっとあのことだと思っていたが。
それは、彼と彼女だけのものではなかったのだ。
では、彼女とのつながりはなんだったのか。
怖いことは真実ではない、真実を知らないことだ。
このセリフ、いや一文には大変共感する。
知らないでいるのは恐ろしい。
知らないでいるぐらいなら、知るための後悔をした方がいい。
でもね、ドライブ・マイ・カーは、知ることができなかった話なの。
知りたいことは、もう聞けないのね。
だって、もうあの人はいないからね。
その人が、どう思っていたかなんて、また会えなくちゃ知りようがないよ。
手紙でも残っていたら別かな。
そんなものは都合よく残っていないからね。
だから、家福は長い会話をする。
車に乗って。