確か、燃ゆる女の肖像の予告かどこかで聞いた言葉だったと思う。
6月だし、自分のアイデンティティについて書いてみよう。
私は基本的にピエロだ。
おちゃらけているし、みんなはそういう存在だと思って寄ってくる。
人好きのするやつだと思っている。
だがそれは、私にとって自分を見せないようにするための距離だと思う。
他人がわかりやすい自分を演じていれば、勝手に人はそうだと思いこむ。
私もそれでいいと考えている。
説明するのは面倒だし、分かってもらいたいとも思っていないからだ。
だから、普通の人の観念に合わせている。
外では言わない。
言ったとしても、演じている自分が発する言葉を出すことが多い。しかも無意識に出てきてしまう。
口で説明するのは難しいが、反射みたいなものだ。
私は人には絶対言えないと思っていることがある。
いや、正確には一人だけそれを言ったことがある。今も友達だ。
私は自分がXジェンダーであると確信している。そしてアセクシャルだと思う。
どうして人と違うのかということを幼い頃に考えたことがある。
昔はよくわからなかったから、クエスチョニングと言ってよかったと思う。
もしかして同性が好きかと考えたこともある。
友達に、レズビアンだったりするの?と聞かれたことがある。
面倒だったし、肯定して奇異な目で見られるのも嫌だったから否定をしたが、否定することに違和感があった。その時は自分がよくわからなかったからだ。
だから、普通の人を演じていた。それはそれで苦痛だった。
人に対しての恋愛感情はなかった。だが、人は好きだったし、そこに男女の区別はなかった。
どうしてどちらにも同じ感情を抱くかはよくわからなかった。
そして、どちらかというと、自分がどちらの性であっても違和感があるという結論に達した。
Xジェンダーは性のゆらめきがあるから、どう自認するのか、それは様々みたいだが私の場合は、どちらでもないが一番しっくりくる。
無性と言う方があっているかもしれない。
スカートは嫌いだった、可愛いものは好きだけど、かっこいいものも好きだった。髪が長いのは嫌いだった。大きめの服を着ている。女の子なんだからと言われるのも嫌いだったが、男の子なんだからと言われる自分を想像しても違和感があった。
女の子としての部分があると違和感があったが、かと言って男の子の部分があることを想像しても違和感があった。たぶん全部いらないのだ。
自分を例えるなら少年という感覚が一番近いかもしれない。
恋愛ごとは苦手だった。
面倒臭い感情だと感じる。私がではなく、周りから受ける感情としては。
映画や漫画を見るときは、恋愛感情というよりは、その人がただただ好きという感情におきかえて鑑賞している。
それ自体興味はなかったし、それを当然のことのように強制されたり、恋バナに盛り上がっている人たちを見るとドン引いた。
出逢いがあるよ、いい人がいれば、みたいな言葉は不快だった。
クソ面倒だ。
漫画の中だけなら別に問題はない。
登場人物たちの気持ちになるからそれは気にはならない。
大豆田とわこのドラマでかごめが「そういうのはいらないんだよ」と言っていた気持ちはよくわかる。
だから、そういうのとは無縁の人やキャラを演じていた。
キャラクターになってしまえばいいのだ。
私は人と理解し合いたいと根本では思っていたが、それと反して心のなかではよく人を遠ざけていた。
普通とはなにか。
最近はよくこれを考える。
なんとなく使っている人もいるんだろうな。
わたしもたまに使ってしまう。直後に自己嫌悪にも襲われる。
私は普通じゃない。人と違う。
そう実感したのは東京に出てきてからだと思う。
圧倒的母数によって、明らかに自分が違うと分かったからだ。
深い話を人とすることは殆どない。
それを話すこと自体は好きだが、話しても仕方がないからだ。
だから基本的には人に踏み込まないことにしている。
その場限りでいい。
随分ネガティブなことばかり話しているかもしれないな。
私は、前の職場の人の名前をほとんど忘れてしまった。話したことがある人ですら、思い出そうとして数ヶ月要したこともある。
興味の度合いが平等ではなく、極端だ。
興味が出た人には勝手に体が動いてしまう。
これはhss/hsp的な要素の一つだと思う。
それに困った人を見ると何かしなくては、と放っては置けなくなる。逆エンパス的な要素も強い。
一度気になると、行動する衝動を止めるのが凄く難しい。
後悔は行動したあとに大体やってくる。
何故ここにこういうことを書くのか。
書くことで整理しているのだと思う。
多分感情が動いたときに言葉にしているのだろう。
私は、こういう文章を書くやつだと全く思われていない。そういう陽キャだ。
では陽キャなわたしとここにいるわたしは別の私だろうか?
わたしはそうは思わない。
人に見せる外側もここにいる私も全部私だ。
だから両方いていいのだと思う。
それが私だからだ。
始めたのはいいものの、帰結するのが難しいな。
要するに、人は矛盾している。
陽キャな自分もいれば陰キャな自分もいる。
人と分かり合いたいと思っていても根本的にはわかりあえないと思っている部分もある。
もしかしたら、全然わかっていないかもしれないし、一ミリも受け止めることすらできないのかもしれない。
話を聞いても、それがどのぐらい苦痛なのか、どのぐらい好きなのか、どのぐらい違和感があるのか、どのぐらい疲れるのか、一度では理解できないかもしれない。
自分の目の前にいてもその人が何を考えているかなんてわからない。
実際わたしは何度も失敗した。
よくわかっていなかった。でも知りたかった。
実際は映画のようなことは起きないし、わかったときには遅すぎる。
けど、わかろうとするその気持ちが大事だと思う。
知らないでいるぐらいなら、知るための後悔をしたほうがいい。
さて、今日は10回目ぐらいのハーフオブイットを見ながら寝るぞ。
もちろん吹き替えでな。
最高に大好きだ!