ジム&アンディを見ました。
ネトフリのドキュメンタリー映画ですね。
マン・オン・ザ・ムーンのアンディ・カウフマン撮影時の映像を交えながら、ジム・キャリーの人生も絡めたドキュメンタリーになっています。
私は、ジム・キャリーってとても苦手だったんですよね。
マスク、MRダマー、トゥルーマンショー、ケーブルガイとかも見たんだけど、とても苦手で。
多分同族嫌悪みたいなものを感じてたんだと思う。
いつも笑顔が張り付いていて、おかしな動きをしていて、彼はいつもジム・キャリーを演じていた。
そこが嫌いだったんだと思う。似てたから。
私もよくおちゃらけた自分を演じていた。
悩みなんてまるでないというような、他人が見たい私を見せるようにしていた。
そうすれば、とても楽だったから。
他人はその人がどういう人かという枠さえ見えれば、後は見ていない。
目の前にいたってその人がどういう人かなんてことは実際のところ分かりはしない。
だけどそれと反してエターナルサンシャインは、ジム・キャリーではなくなっていたから、私は好きだった。
あれは、ジム・キャリーがジム・キャリーじゃないときを見計らって撮影しているのだが、
ドキュメンタリーの中で、撮影を振り返って、悲しさが溢れて美しいとミシェル・ゴンドリーに言われていたジム・キャリーの言葉を聞くと、好きと言ってしまっている私はちょっと申し訳なくは感じるけどね・・w
マン・オン・ザ・ムーンの撮影で、アンディとトニーの両方を演じていたジム・キャリーだったが、現場にはジム・キャリーはいつもいなかった。
つまり、ジム・キャリーを演じる必要がなかったから、彼はいつもいなかったのだ。
彼は、いつも何かを演じることによって自分を得ていた。
どうしたらよいだろう。
15分ぐらいしたら少し泣けてきたよ。
私と同じだと感じたからだ。
彼は偽りの自分を脱ぐ時が来る、脱がない人もいるが、脱ぐ人もいると言う。
私の外枠は偽りだろうか?
でも私は思うのだよね。
偽りを演じている自分も、偽りを脱ぎたいと思う自分も、脱ぎたくないと思う自分も、全部が自分なのだと思う。
ただ脱ぐか脱がないか、それは選択だ。
どういう選択をするかということも含めて自分だ。
他の要因によって起きる選択も、自分の意志による選択であったとしても、結局どちらも自分なのだ。