ヒルビリー・エレジーを見ました。
聞いたことあるタイトルだなと思っていたら、読もうと思っていた本の映画化でした。映画化したのはロン・ハワード。大御所ですね。
映画にもいい感じのすたれ具合のエイミー・アダムスや、グレンクローズ(最初だれかわからなかったよ)とかが出ています。
キャストが良いですね。
本題のヒルビリー・エレジー。ヒルビリーっていのは、山岳地帯だったっけな?緑豊かな片田舎で暮らしている白人のことを呼称しています。炭鉱夫だったり、機械工だったりそういう職業の人が多い。
要するに、貧乏な白人のことを指しています。
同じように、肉体労働をする白人を侮蔑するようなかんじでレッドネックと呼びます。
何故なら、肉体労働をしているから、後ろの首が日焼けしているってわけです。
そして同じようにホワイト・トラッシュという呼び名もありますね。
白いごみ・・ってあなた・・。
セックスエデュケーションにも出てきましたが、アメリカではトレーラーの集団住宅地みたいなのがあります。住宅地ってよんでいいのかな・・。
日本でいうと団地みたいな印象かもしれないけど。
まあ、話はそれましたが今回の映画はそういう白人の貧困の対象ヒルビリーについての映画なんですね。
そういや、DBDにヒルビリーってやついるよね。
あれも、片田舎かとしての恐怖の対象、テキサスチェーンソーやそういう類と一緒ですね。(名前が切ないきもするわ・・)
さて、この映画ですね。
悪くはないんですよ。
何も知らないで見れば別に悪くはないんですよ。
ただ、タイトルがさ、ヒルビリー・エレジーなんだよ?
ヒルビリーの話なんだな、って思ってみるわけさこっちは(微妙にヒルビリーをしっているしさ)
しかし、問題はその要素がぼかされていることだ
この映画では、白人の貧困を描こうとしている。
エイミーアダムスはシングルマザーで看護師。祖父母は、地元の山岳地帯を出て暮らしている。でも別居している。
彼らは、家族は大事だ!の精神があるという。
おばあちゃんのドスの効いた言葉が、その精神を漂わせる。
そんなおばあちゃんの服装は、だいぶ大きいサイズのTシャツ(アメリカの人ってなんで大きいTシャツ好きなんだろうね)、アメリカの国旗が入ったTシャツや、猫のTシャツなんかを着ている。
日本でいうと、日本の旗のTシャツ着ているようなもんだけれど、アメリカだと国旗のTシャツポピュラーなのかな?しまむらみたいなところで売ってるとかかな・・?
色々わたしの中での妄想が始まる。
母は、看護師として働き、二人の子供を育てているが、自分の現状への不満などを常に抱えていた。
子供たちも、親のことも愛しているのに、弱い一面があった。
そうして、彼女は薬物に手をだしてしまう。
そんな母が病院にいる、という姉の電話を受けて、成長したJDは、母のいるオハイオ州まで車を走らせるのだった。
というストーリーになっている。
この映画ではたまーにヒルビリーっぽいところが出てくる場面はあるが、沢山は出てこない。それっぽい感じのシーンは出てくる。
ヒルビリーをこんなに大きくテーマにしているのであれば、ヒルビリーの所以や、そうなってしまう社会的なメッセージがあってしかるべきではないだろうか。
ましてこのご時世だ。しかし、
この映画ではそれが霞んでいるのだ
ヤク中の母親に苦悩し、貧困から抜け出そうとする話、にしか見えない部分があって、もう少し説明が欲しいのだ。
もしかしたら、アメリカ人にとっては、見たら一瞬でヒルビリーってわかるやん、社会的にどうかなんて、クレジットカード全然使えないとことか見てたらあいつはヒルビリーや、とかってわかるもんなん?
仕事もせずに家にいて、喧嘩ばかりして、ドラッグに溺れ、今日明日食べるものにも困っている、数年後には生活保護か刑務所さ。ケンタッキー州の堺に住むヒルビリーたちは、オハイオ州に降りてきて働くってこと?つまり、オハイオ州そのものが貧しいのか?どうなのか?それはヒルビリーにとっては当たり前の話なの?それは=の扱いになるのか?
アメリカ人にはこれで説明が足りているのか?この訴えだけで良いのか?
どうなん?
とか、色々思ってしまうわけさ。もしかしたら、アメリカ人にとってはこの映画をみたら一瞬でヒルビリーとわかることなのかもしれない、そうじゃないのかもしれない。でもこれはNETFLIX配信だ。もう少し自由に問題提起をしてほしい。
というのが、個人的には気になるところなのだ。だから、それがどういうことなのかの背景の本を読まないといけないんだろうな、という感じがする。
色々なものがなくなって、よくある白人の貧困映画から脱出する、という大量生産映画になっている感じが残念なのだ。