原作は既読です。
ちょっとネタバレで行きましょう。
ママと呼ばれて振り返る。
日々の育児に追われ、一息ついた公園で、旦那の給料で生活していいご身分だと見知らぬ人に聞こえるような話を聞かされ、家に帰ると、自分の洋服の汚れを落とすまもなく家事と育児をしている。
夕食のときには、ジヨンの右手の手首を痛めているのが目に入る。
医者に行くと、家電が家事をしているのに痛めるなんて、と小言を言われる。
なんとも言えない居心地の悪い旦那の実家。別にほしくないプレゼントは金がかかっていない。銀行の名前入りだ。
ジヨンはアヨンのママと呼ばれ、ママ友とのお茶会に呼ばれるが、単なる噂話というわけでもなく、そのうちの一人は工学部を卒業し母となった今も数学を解いたりしている。
決して賢くないわけじゃない。
でもなぜか、社会の外に追いやられているようなそんな気分になる。
日本でも、妻だから女だからという訳のわからない習慣という名の理屈で追いやられる。
チーム長と理事との会話は心が痛い。
もともとはくせ毛の髪の毛のジヨンは、働いていたときはサラッとしたストレート。
いまは、下で軽くまとめているだけ。
ハイヒールで闊歩していて彼女もいまはスニーカー。
化粧をする暇もない。
そしてやはりお国の社会問題にも提言する。
韓国はすごい盗撮が多い国です。
五つ星ホテルにも盗撮カメラが置かれていたりするし、公共のトイレに入るのももってのほか。
会社だって安心できない。
女性たちは搾取されていく。
バスのシーンも胸が痛い。
常に何かに怯え、警戒し、もやもやしたものを抱えながら生きている。
お前の笑顔が悪い、お前がそんな格好をしているから悪い。
自衛の基本としてはそうかもしれない。
でも、そういうことじゃない。
そういう社会に怒っているのだ。
私は、この狭い日本という社会で、それがあたりまえだと思って生きてきたような部分がある。
でも、そうじゃない、ということをここ数年で改めて気付かされていく。
その違和感に改めて気づかされる。
この映画で感じることは怒りだ。
若草物語でも感じたことだが、若草物語では、怒りを経て、どう自分が生きていくのか?生きたいのか?それを語っていた。
そう。だがこの映画の原作は違った。
原作では、世の中に対する怒りや、問題提起で終わってしまっていた。
でも、この映画版の82年生まれキムジヨンは違う。
映画版にはその回答がある。
どうしたいか、どう生きたいか。
映画版の方がそこを発展させている分好きだ。
そして、映画版では原作よりも露骨に女性格差や、盗撮問題などに焦点を当てている。
若草物語と違うのは、これが現在に置き換えられている分イメージしやすいということだろうか。
たとえ、中目黒のビストロでブランチしている主婦がいようと、
スタバのコーヒーショップで赤んぼを連れている人が休憩しようとも、ただそこで数分しか見かけていない他人が何を非難できようというのか。
自分という人間に対して、意識して生きていかねばならぬな、と考える映画なのでした。
ところで、みんなユニクロのダウンを着ている?ようなのが気になる。。。。w